「天気の子」感想

新海誠監督作品「天気の子」を見てきました。

感想を言うと、普通にいい映画、普通にいいアニメです。

しかし、期待していたのは「普通じゃない何か」だったため物足りなさは否めませんでした(しかしだからといって決して悪い映画ではありません。繰り返しますが普通に、あるいは普通以上にはいい映画です。)

思えば、前作の「君の名は。」は、自主制作的なアニメ作家、アニメ監督と思われていた新海誠にメジャーな作品を作らせると、このぐらいのことはやっちゃうんだよ、という意味で社会に衝撃を与えた映画でした。アニメというもの、特に日本のアニメというものをある程度わかっているつもりでいた我々に対し、まだまだこういうアニメがあるんだよ、ということを示してくれたアニメであり映画でした。自主映画(インディー)がアートだとするとメジャー映画はエンターテイメントだ、インディーがマニア向けだとするならメジャーは大衆向けだ、と言うような紋切り型の評価を超えて、もはやインディもメジャーという区別(枠)もないし、マニアと大衆という区別もないし、アートとエンターテイメントという区別(枠)もない、アートはエンターテイメントだし、エンターテイメントはアートだ、ということをまさに目に見える形で提示してくれた作品でした。そしてその流れで今回の新作を待っていたのですが、しかし、そこにあったのは、少なくとも私にとっては、一歩戻った意味でのメジャーエンターテイメント作品でした。

しかし、これはもしかしたら、監督の問題ではなく、見ている私たちの問題なのかもしれません。いい意味で目の肥えてきた大衆は(もちろん私も大衆の一人ですし、そうであることに誇りと自信を持っています)、それまでの全てをエンターテイメントとして取り込んでしまいます。かつて「普通じゃない何か」だったものは、すぐに「普通のもの」として取り込まれてしまいます。そうなるとエンターテイメントに対比するものとしてのアートは(このような対比的な考え方自体に問題があるのでしょうが)、今の現代アートとよばれるものの一部がそうであるように新奇性を争うゲームとなってしまいます。

「天気の子」もそのような意味で、少なくとも私にとってはエンターテイメントとして取り込まれたものの枠を超えるものではありませんでした。しかし、そもそもそれを超える必要があるのか、それでいいのではないか、というのも、「天気の子」で示されたメッセージであると言えます。以下、多少ネタバレになりますが、世界を変える能力があるものがその能力を必ずしも使う必要があるのか。そうでなくとも(世界を変えなくても)、世界は存在しうるし、私たちはその世界に対応できる、というのがこの映画のメッセージかと思いました。そしてそれは正しいメッセージです。世界が変わっても変わらなくても、我々は大丈夫ですし、大丈夫であるために生きているのです。