怪獣映画と人間ドラマ

前回のブログで「今回のゴジラについてはいずれ改めて映画評的なものを書きたいと思います」と書きましたのでそれを書いてみます。

結論から言うと、怪獣映画としては100点、しかし人間ドラマとしてはうーん、というのが現時点での感想です。

しかし、これは怪獣映画は人間ドラマとしても成立していなければいけないという意味ではありません。怪獣映画は怪獣が暴れてくれればいいのです。そして怪獣は怪獣であるがゆえにそこに理屈はいらないのです。

一方、人間ドラマには理屈が要ります。理屈というかどうしてもめているの、どうして対立しているの、どうしてうじうじしているの、どうして悩んでいるの、という理由です。

人間にとって怪獣は訳がわからないという意味で絶対的な他者です。そしてそのような訳がわからない他者に対してどう接するか、というところにドラマが生じます。「シン・ゴジラ」はその意味で素晴らしい人間ドラマでした。第1作目のゴジラもそのような意味で他者でしたし、前回のハリウッド版のゴジラもそのような意味で(よくわからないという存在という意味で)ゴジラは圧倒的な他者でした。

しかし、今回のゴジラはある意味ゴジラという存在、そして怪獣という存在を地球の自浄作用的な存在として意味づけて(意味づけて)います。それはそれでなるほどというか、面白いといえば面白いのですが、そうなった場合、今度の他者は宇宙怪獣であるキングギドラですが、その他者もわかりやすい意味での「敵」となることで意味づけられてしまいます。

そしてそうなると怪獣映画としての魅力である今ゴジラとキングギドラの戦いにも意味が生じてしまいます。渡辺謙演じる芹沢博士の台詞に「とりあえず今回はゴジラは味方だ」といったようなものがありましたが、ゴジラが味方として理解可能なものになってしまった時点で、怪獣同士の戦いも意味を持ったものとなってしまいますし、戦いも怪獣と怪獣の話になり、人間と怪獣の話からはスライドされてしまいます。先に「怪獣映画としては100点、しかし人間ドラマとしてはうーん」「怪獣映画は怪獣が暴れてくれればいいのです」と書きましたが、私もここまで書いてきて気がつきましたが、怪獣映画において見たいのは単に怪獣同士の戦いではなく、その中で翻弄される人間たちのドラマです。今回出てくる怪獣はゴジラ、キングギドラ、ラドン、そしてモスラと、皆、レジェンド、プロレス的にいえばメインイベンターの選手たちです。しかし、私たちはリングの上での彼らの戦いを見たいわけではありません。いつリングから降りてこちらに乱入してくるか分からない、そしてその時、自分だったらどうするか、この映画の主人公たちだったらどうするかを考えながら見たいのです。

もちろん怪獣が暴れれば死者が出ますし、それを我々は許すわけにはいきません。しかし、自然災害においてはそのようなこと(許すことができない、納得することができないが死者が出てしまうこと)はありますし、人災である戦争についても同様です。ゴジラの存在が核兵器と結び付けられているのはその意味でもやはり象徴的です。核という化け物(モンスター=怪獣)に対し、我々はどう対応するのか、これがやはり怪獣映画のメインテーマでしょう。

と、まあ、少し否定的なことを書きましたが、しかしそれもやはりゴジラや怪獣に対するこちらの思い入れからです。先に「怪獣映画としては100点」と書いたように、私たちが子供の頃夢見た怪獣の「リアル」なバトルがここにはあります。そしてそれだけで素晴らしい映画です。

怪獣映画が着ぐるみによるものだということは子供心にも分かっていましたが、しかし私たちはそれをリアルなものとして脳内変換していましたし、それができる限りリアルな形でいつか映像化されることを願っていました。そしてそれは今、実現されました。それがCGであることは今の私たちももちろん理解していますが、スクリーンの上ではCGはもややリアルなものです。

と、いろいろと書いてきましたが、いろいろと考えさせられる映画がいい映画です。その意味でこの映画はいい映画です。