「少年」「夏の妹」:戦メリ、愛コリだけじゃない大島渚
久しぶりに映画評です。アマゾンプライムで公開している大島渚作品「少年」「儀式」「夏の妹」を見ました。
いずれも創造社時代の作品です。大島渚といえば「戦争のメリークリスマス」「愛のコリーダ」が代表作ですが、その源にして真骨頂はこの時代の一連の作品群にあると言えるでしょう。その中でも「儀式」は創造社時代の集大成と言われる作品ですが、個人的にはそれよりも「少年」と「夏の妹」がグッときました。
「少年」は「万引き家族」の元ネタとも言われていますが、あの時代にあのテーマをしっかりした映画としてロードムービーとして描いていることには驚愕さえ感じます。なにより映画としての映像の完成度が高いですし、主人公の「少年」に全くの素人を起用しながら脇と撮影始め製作陣をしっかり固めることで恐ろしいほどの完成度の高い映画として作り上げています。映画とは何か、映画とはストーリーか、映画とは映像かといった議論を超え、映画とは映画だ、これが映画だという一つの完成形がここでは提示されています。この映画が埋もれてしまわずこのような形で配信されたことに感謝します。
一方「夏の妹」は映像としては映画カメラではなく今でいうビデオカメラで撮ったような安っぽい印象を得ますが、しかしそれを見る側の脳内で補完させるだけの凄さ(凄みにして厚み)がここにはあります(ペドロ・アルモドバルの初期作品のように!)。極論を言えば映画とは印象だ、印象を残せる映画がいい映画だと言えるでしょう。その意味でこれはここ数年で見たベスト映画だとも言えます。とにかく私には刺さりました。はっきり言って先に述べたように映像としての質は低いですし、大島作品お馴染みの佐藤慶、小松方正、戸浦六広、小山明子、殿山泰司以外は主役と言える「スーたん」が特にそうですが演技が上手いとは決して言えません。しかしそれが逆にこの作品の魅力ともなっています。このベテラン勢(当時は殿山泰司以外はまだベテランとは言えない年齢だったかもしれませんが(でもそれでもとにかく存在感がすごい))が醸し出すなんとも言えない空気の中で「スーたん」始め若手の俳優陣が浮きながらも浮いているが故に映画に推進力を加えています。その中でこれがおそらく本格的には映画デビューとなるりりィさんがまた素晴らしい。ベテランでもなく素人でもない存在としてりりィさんがそこにいることでこの映画に、これが映画(フィクション)なのか現実(ノンフィクション)なのかというなんとも不思議な感覚を見る者に与えることに成功しています。沖縄の沖縄としての問題、家族の家族としての問題、若者の若者としての問題、若くはないものの若くはない者としての問題、それらが相互に絶妙に絡み合っています。大島渚の代表作としてこの作品が上がることは少ないというかほとんどないでしょうが、しかしこのような作品をさらりと(さらりとかどうかはわかりませんが)作れてしまう当時の大島渚には驚嘆するばかりです。