勝手に2本立て:「三度目の殺人」と「疑惑」

   

久しぶりに映画評をアップします。

Amazon prime videoに是枝監督作品の「三度目の殺人」が上がっていたので早速見ました。

是枝作品は基本的には映画公開時に映画館に見にいくことにしているのですが、これは見ていませんでした。

理由としては是枝監督には珍しい、しっかりしたフィクションとしての映画作品だと思っていたからです。

是枝監督作品の魅力はいわゆるフィクションとノンフィクションとが渾然一体化しているというか繋がっているところにあります。

しかしこの作品はいわゆる「しっかりした脚本」と「俳優」さんたちによる「しっかりした演技」によるもの、つまりはフィクションだと思っていました。

だから映画館に足を運ぶのに躊躇していました。

しかし、、、結論から先に言うと確かにフィクションではありますが、そのテーマはフィクションとは、ノンフィクションとはという境界線と連続線という、これまでの是枝作品とまさに繋がるものでした。いわゆる法廷ものですが、そこで言うフィクションとは「理解されるストーリー」のことです。この映画の場合は殺人をめぐる「ストーリー」です。

一方ここで言うノンフィクションとはいわゆる「事実」です。しかしこの映画はそもそも事実などあるのか、分かるのか、理解される形で提示されてしまえば、それは全てフィクションになってしまうのではないか、という法廷というものが本来的、本質的に持つそのそもそもの疑問へと迫っていきます。そしてそれは映画をめぐる本来的、本質的な疑問でもあります。映画を理解すると言うことは映画本来が持つ「事実性」「ノンフィクション性」をなかったものにしてしまうのではないか、という疑問です。

映画とはスクリーンに映し出される映像です。いわゆる写真(静止した映像作品)が見るものに対してその解釈が開かれているように、映画もその解釈は開かれています。しかしそこに「ストーリー」というものが入ってくることによって映画は「理解されるもの」になっていきます。しかしその理解が全てなのか、この問いは法廷における「理解」とは何かという問いと重なります。法廷における「理解」とはまさに「ストーリー」です。「ストーリー」がはっきりしていれば、言い換えれば単純であればあるほど、それは真実味が高いということになります。逆に言うとそこでは「ストーリー」で説明がつかないものは排除されるか、なんとかして「ストーリー」に取り込まれなければならないと言うことです。「三度目の殺人」はまさにその「ストーリー」において(演出等を踏んだ上でのストーリーにおいて)、その「ストーリー」に対しての問いを提示しています。

一方、同じ法廷ものとして松本清張原作、野村芳太郎監督の黄金コンビによる「疑惑」もまたAmazon prime videoにアップされていたので見ました。こちらはストーリー的にはいわゆる「真実」を解き明かしていくと言う点では先に述べたような意味での「問い」には迫れていません。

しかし、この作品では桃井かおり演じる球磨子という存在がフィクションとノンフィクション、理解可能なものと理解不可能なものというもののあり方、存在自体をまさに体現しています。「三度目の殺人」では役所広司がそのような役回りなのですが、役所広司氏がなんというか抽象的な存在である印象を持つの対し、桃井かおりは生々しいです。そして生々しいであるが故にフィクションもノンフィクションも、理解も理解不能なものもそれが共存していると言うのが現実なのだと言うことを突き詰めていきます。さらにこの映画の場合、生々しいのは容疑者役の桃井かおりだけではなく弁護士役の岩下志麻にもあてはまります。態度振る舞い的には能面的と言うかクールなのですが、その内側には生々しさがある。そしてそれを桃井かおりとは全く違うアプローチで表現している。確かに「三度目の殺人」と比べると「疑惑」はストーリーとしては単純かもしれませんし表面的なメッセージも単純かもしれません。しかし表面的に伝えるメッセージとはまた違うものを役者が伝えていると言う点においてはもっと評価されてもいいかなと思います。もちろん「三度目の殺人」においても役所広司は不気味な存在を体現していますし、それに翻弄される福山雅治もいいですし、広瀬すずもいいし、母親役の斉藤由貴もいいです。理解する/されるという関係性は監督と観客に対しても当てはまりますが、脚本と役者という関係に対しても当てはまるでしょう。つまり映画というものは二重三重の理解する/されるという構造を持っており、フィクションである(脚本というものが存在する)とともにノンフィクション(俳優がスクリーン上で行なっていることは演技であるとしても事実、そこに写真、映像が存在していることは紛れも無い事実)という構造になっています。是枝監督はそれに対して意識的であると言えますし意識的であること隠そうとはしていません。一方野村監督は意識的では無いふりをしつつも意識的ですしそれは演技をするにも伝わっていますし観客にも伝わります。この二つのスタイルのどちらがいいかわるいかをここで議論をするつもりはありませんし、どちらも映画として素晴らしいものです。問いは観客に投げられています。一言で言うとあなたは理解される人間になるか、理解を超える人間になるか、という問いです。答えはもちろん後者でしょう。そしてそれは同時に人を理解するか、理解を超えた上で人と付き合うか、という問いになります。これに対する問いも当然後者でしょう。

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