勝手に2本立て:「バリー・シール アメリカをはめた男」と「世界で一番悪い奴ら」
いつものようにアマゾンプライプビデオで「バリー・シール アメリカをはめた男」と「世界で一番悪い奴ら」を見ました。
この両者に共通しているのは実録物の「悪いやつ」を描いた映画だというところです。
しかも両者とも笑える映画、エンターテインメントとしての映画としてそれを描いています。
映画について語るときはその「作り方」「撮り方」について語りたくなるタイプとその「内容」について語りたくなるタイプがあるのですが、これは前者で語ることもできますが、まずは後者で語りたくなるタイプの映画です。もちろん実録物だからそうなのでしょうが、それ以前に映画としてよくできているからまずは中身を語りたくなるタイプです。
まずは「バリー・シーズ」ですが、これは一言で言えば人を食った男の喜劇と悲劇です。
そして人を食うことの気持ち良さとそのリスクを描いています。彼はリスクを知っていた。しかしそれをやっていた。それも楽しんで。
これはまさに仕事というもの、金を稼ぐということの本質を描いています。リスクを負わないで稼ぐことなどできない。そしてどうせリスクを負うのであれば稼がなければ意味がないし楽しまければ意味がない。この現実を誰が否定できるでしょうか。
一方「世界で一番悪い奴ら」もリスクを負いながらそれを楽しんでいた男の映画です。しかし彼はリスクをリスクとして最後まで理解していません。そもそも自分のやっていることが悪いことだということさえ理解していないように見える。これは一番タチの悪いタイプですが、しかし実際問題としてこういう奴はいっぱいいる。そしてこれは「バリー・シーズ」についても言えることですが、それを利用しているもっと悪い奴らがいる。そしてそのもっと悪い奴らはこれらの映画の主人公やその周りの登場人物たちが悲劇的な結末を迎えてもそれさえも無意味なもの、あるいは利用できるものとして利用してしまう。これが現実で我々はこの現実に立ち向かおうとさえもしていない。それがこの二つの映画が伝えているメッセージだと言えるでしょう。お前はこの人物を笑えるのか、軽蔑できるのか、であればそういうお前は何をしているのか。お前はこのような映画に取り上げられる価値もない人物ではないのか。映画が伝えるのはそのようなメッセージです。そしてそれは刺さる人には刺さるし、刺さらない人には全く刺さらないでしょう。そして刺さる人には「じゃあ、どういう形でお前はそれを表現するんだ」という次の課題が見えてきます。「アメリカをはめた男」にも「最も悪い奴ら」にもその上の「悪い奴ら」がいる。お前らはそれとどう戦うのか。それがこの二つの映画をみてわかる人にはわかるメッセージでしょう。一見笑えるエンターテイメントの中にそのような本質的なメッセージが込められている。こんなことをあえて言うことは無粋でしょうが、一応ここに書き記しておきます。