勝手に二本立て(2):アニメーションという幻惑と幻覚、又は湯浅政明のアニメ作品における中毒性

またもやゴールデンウィークを利用してアマゾンプライムビデオでの勝手に二本立てを自宅で行いました。

今度は有料作品ですが、1本324円という良心的な値段設定です。

今回見たのは湯浅政明監督によるアニメ作品「夜は短し歩けよ乙女」と「夜明け告げるルーの歌」です。

個人的な好き嫌いで言えば「夜は短し、、、」のほうが湯浅ワールド全開で大好きですが、「夜明け告げる、、」も正統派アニメ作品として素晴らしいものでした。同じ人魚ものとして宮崎監督の「崖の上のポニョ」と比較されがちでしょうが、もちろんポニョを踏まえてのルーであるということを作る側も見る側も十二分に理解しているわけですし、さらに言えばここには過去のいろいろなアニメも踏まえられているわけです。ルーの髪の色や揺れ方にアニメ版のうる星やつらのラムちゃんを彷彿させられたのはわたしだけではないでしょう。

さて、湯浅監督のアニメの特徴といえばそのドラッグ感覚なのでしょうが、それが全開なのが「夜は短し、、、」です。ディズニーのアニメのテーマが「マジック」だったように、現実ではあり得ないことをあり得ない形で視覚化、映像化してくれるのがアニメの特徴の一つであるとすれば、現実ではある得ないことをあり得る形で(できるだけリアルな形で)視覚化、映像化する方向で進化したのがCGであるとすれば、このような湯浅監督のような方向への進化、できるだけリアルではない形でのしかしそれに引き込まれる形での進化はアニメの進化としての一つのありうべきそして正しい方向性であると言えるでしょう。ぶっとんでいる、でもそこにひかれる、そこに魅力を感じる、その世界の中に行きたい、その世界の住人になりたい、これが「マジック」が「マジック」である所以です。もちろんそこには「トリック」はあるでしょうし、そのトリックはある程度は技術的に説明がつくものでしょう。その「トリック」は絵の中にあるのかもしれないし、絵のデザインの中にあるのかもしれないし色使いの中にあるのかもしれないし絵の動きの中にあるのかもしれないし、ストーリにあるのかもしれないし、声優さんの演技にあるのかもしれないし、それらの組み合わせにあるのかもしれないし、組み合わせという意味での編集や演出にあるのかもしれない。でも「トリック」がわかったところでそれが「マジック」の魅力をすべて説明するものでもないこともまた事実。マジックというのはまさに体験させることで、アニメーションというのも(あるいは映画、映像作品というものも)見せるもの、説明するものではなく体験させるものだから。でもなぜアニメーションは「体験」になるのか。単なる網膜上、あるいは聴覚上の体験に過ぎないものがなぜ「体験」になるのか。それはやはりそこに「刺激」があるから?単なる水よよりもアルコール成分が入った酒のほうが「刺激」となりそれゆえに「体験」とやるように「刺激」がそこでのキーとなる?ではアニメにおけるその刺激とは?、色?、動き?

そんなことを考えさせられる映画体験、アニメ体験でした。