勝手に2(4)本立て:シュチュエーションコメディーとドラマ

   

アマゾンプライムビデオをチェックしていたら長らくソフト化されていなかったペドロ・アルモドバル監督のデビュー作「ペピ・ルシ・ボンとその他大勢の娘たち」があったので早速見ました。ついでにと言っては何ですが2作目の「セクシリア」も無料公開しているので見てみました。

映画というよりはいわゆるVシネマ的な低予算低画質の作品ですが、しかしそこにあるエネルギーは見るものを刺します。カルト的人気作品となっていることは十分にうなづけるものです。初期ペドロ・アルモドバル監督の作品はこのようないわゆるシュチュエーションコメディーで登場人物のキャラクターとその設定(シュチュエーション)を決めればあとはストーリーは勝手に(もちろん勝手ではなく監督の計算上でしょうが)動いていく、というものが多いですが、映画において大切なのはストーリー自体よりもキャラクターや設定の強度であること、すなわち「力」であることを改めて痛感させられる映画です。映画というものが基本的に時間と空間(画面)を動かすことでそれが作品となっている以上、そこで最も大切となってくるのは「力」であり「強度」であり「インパクト」です。ペドロ・アルモドバル監督の場合はある意味ぶっ飛んでいますが、性や快楽というものをめぐる「力」こそがその場を動かすエネルギーであることを改めて知らしめてくれます。

そしてこのエネルギーがあるからこそ「ドラマ」と言うものが生まれてくることもまた中期以降ペドロ・アルモドバル作品を見ると分かります。初期が力を力(原動力)として動かしている(動いている)という意味でのシュチュエーションコメディーとすると、中期以降はその力を保持した上で、そこにサスペンス要素を加える(加えると言うかサスペンス要素で味付けする)という形で「ドラマ」を作っていると言えます。今回見たのはアマゾンプライムビデオでプライム会員であれば無料で見られる「マタドール」と200円で見られる「ボルベール<帰郷>」です。前者はそれまでのシュチュエーションブラックコメディーで売って来た同監督がシリアス路線の「ドラマ」もできるということを証明した作品ですが、ここではそれまでブラックな笑いの対象としであったは性というものを「死」をめぐるものとすることでより「シリアスに」(しかし「 」付きでのシリアスに)ドラマ化しています。しかし笑いというかぶっ飛んでいる要素はまだあり、個人的には増村監督版の「卍」(岸田今日子が主演のもの)を思い起こさせるものでした。また「ボルベール<帰郷>」は映画として完成度の高いものであり、初期作品を見たあとであるとあの「ぶっ飛び感」をここまで「作品」として昇華できるんだ、と感動しますが、しかし同時にこれだからこそ(初期作品があったからこそ)のこの映画なのだ、ということを納得させられます。子供が親(義父)に性的暴行を加えらえるというのは「セクシリア」からあったテーマですが、「セクシリア」の時点ではそれをブラックに笑いに変えていたものをここでは(「ボルベール<帰郷>」では)笑いとすることなく正面から追っていきます。しかし「シリアス」というのは決して真面目に、倫理的に、というもののではありません。ブラックで残酷な形でのシリアスだからこそ刺さるとともにそこには笑い、思わず笑ってしまうタイプの笑いがあります。理屈や倫理ではなく、衝動、強度、力こそが映画においてもそうですし、人生、生きることにおいても大切である、それこそが「ドラマ」(劇的)なのだということを確認させられます。

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