映画評:Ready Player one
2018/05/04
今まで映画評的なことはこのブログではやっていなかったのですが、この度IMAX3Dで「レディ プレイヤー ワン」を見て来て確かに良かったのですがなんかモヤモヤ的なものもありここに書き記すことにしました。
この映画を見て来た理由は一言で言うと過去の自分に対するプレゼントです。「あのスピルバーグが(メカ)ゴジラとガンダムが戦う映画を撮った!」これをあの頃の自分、それこそこの映画のネタがそこにある80年代にティーンエイジャーであった自分、特に今の自分が形成されたであろう中2の頃に自分に見せてあげたかったからです。そしてそうすることで過去の自分と今の自分がつながっていることを確認したかったからです。
結論から言えば確かに中2の自分は喜んでくれたでしょう。しかし残念ながら今の自分はもはや中2の自分ではない。いろいろと嫌な意味で「大人」になってしまっている。現実(リアル)を生きてしまっている。素直に楽しめばいいものを楽しめなくなってしまっている。過去の自分と今の自分はつながっているがある意味断絶もしている。そしてこの映画は実はそれこそがテーマとなっている。
表面的な主人公はいわゆる「若者」であるヴァーシヴァル=ウェイドであったとしてもこの映画における実のメッセージはこの映画の舞台となっているVR世界(OASIS)の想像主でありすでに歳をとり亡くなっているハリディの視点から語られている。そしてそのハリディは監督であるスピルバーグ自身を反映していると言える(事実スピルバーグ自身がある意味私のような我々80年代にティーンエイジャーだった人間の世界観、世界の見え方、世界の見方を作った人であるといっても過言でない)。好きな人にうまくその思いを伝えられなかったこと、親友と思っていた友人と決別してしまったこと、これらはまあよくある話である。しかしよくある話として片付けたいものであると同時に当事者にとってはやり直せるものであればやり直したい思い出でもある(しかし実際にやり直すことはほぼないであろうし、それが(やり直さないし後からやりなおそうともしないことが)現実(リアル)を生きることでもある)。そしてこの映画において実生活の耐えられなさからコロンバス、オハイオの人がVR世界へと没入していたように、そのようなやり切れなさを人はVR世界において補償しようとするのだろう。しかしそのVR自体もその実は「リアル」である。VR世界において、この映画でのヴァーシヴァル=ウェイドの仲間である日本人青年(というより日本にルーツを持つ青年という言い方をした方が「ポリティカルにコレクト」であろう)ダイトウがそうであったように、そこで人は「ガンダム」という「虚」になれる。しかしガンダムになるということは当然そこでアムロレイの苦悩という「実」を引き受けるということでもある。そうなればもはやVRは決して救いでもなければ補償でもない。そこで人が出会うのは現実世界と同じ苦悩である。ハリディは、そしてスピルバーグはそれを分かっている(そしておそらくダイトウも(ダイトウのアバターが三船敏郎的なのも面白い)それを分かっている。それ故に座禅を組んだ後の「俺はガンダムで行く」というセリフである)。VR世界が、そして映画というものが(映画も一種のVRである)それ自体が虚であると同時に現実であるということを。そして今や我々観客もそれを分かっている。だからこそこの映画に対してもやもやといったものもまた同時に感じる(このもやもやを一番うまい形で言語化してくれていたのはこのWiredの記事であった)。「もやもや」とは一言で言えば現実なのにそれがうまくいかない、それがうまく掴めないもどかしさのことである。そしてこれは逆に言えばもやもやを感じるからこそ、その映画はそしてその世界は「リアル」なのであり、その映画を「もやもや」をもって「リアル」に感じるからこそ私たちは「リアル」な世界を生きていることを自覚できる、過去の自分と今の自分がつながってもいるが断絶(ずれ)もしており、また想像上の世界と現実の世界がつながってもいるが断絶もしており、そしてそれらすべてをふくめたものが「リアル」であること、が確認できるのである。つまりは「もやもや」を感じさせない映画は「虚」にすぎず「リアル」ではない。そして私はこの映画「レディ プレイヤー ワン」に対し「もやもや」を感じた。つまりはこの映画に「リアル」を感じた、ということである。この「もやもや」を果たして監督であるスピルバーグはどこまで計算していたのか。それは私にわかることではないしそれを知ることに興味があるのではない。この映画は確かに「いい映画」「うまい映画」(=「虚」として完結した映画)ではないかもしれない。しかし「リアル」に訴えてくる映画であることは事実であり(それは私がこの映画のいわゆる「小道具」「くすぐり」である80年代のポップカルチャーを生きていた人間だったからかもしれないが)そしてそれ自体をテーマとしている映画である。満足感を持って終わらせるのではなく「もやもや」を持って終わらせること、それが「リアル」ということであればこれは少なくとも私にとっての「リアル」についての「リアル」な映画である。