勝手に2本立て:「横道世之介」と「マンチェスター・バイ・ザ・シー」あるいは憎めない男と憎める男、または未来のある男と過去のある男

   

この「勝手に2本立て」のコーナーは2作品を並べることでより見えてくる何かがあるのでは、というコンセプトのもとに書いているもので、初めから意図して2作品をピックアップする場合もあれば、後から結果的に2作品が並ぶ場合とがあります。今回は後者の件です。

最近アマゾンプライムビデオからの作品ばかり紹介していますが、今回もそうで「横道世之介」はプライム会員は無料だったので見て見ました。沖田修一監督作品は「南国料理人」以降何本かは見ているのですが、基本的にオフビートコメディが得意な監督と理解していました。しかしこの作品を見て、コメディがドラマに変わるポイントを目撃したような気がします。前回ペドロ・アルモドバル監督作品をレビューした時にブラックコメディからドラマへの進化を確認したのですが、それと同じことがこの作品には言えます。要は人生における辛さに正面から向き合った、ということでしょうか。しかしこれは決してそれが良いということを言っているのではありません。オフビートコメディーにはオフビートコメディーなりの、ブラックコメディーにブラックコメディーなりの良さと面白さがあります。そしてそれを中途半端にドラマ化しようと思うと中途半端な作品にしかならないでしょう。オフビートやブラックなコメディーができるからこそのドラマというのがここにはあります。

主人公の横道世之介は憎めない男です。そしてそれが魅力でありそしてそれが原因で映画の中で後から(といっても最後にではなく比較的中盤にそれが述べられます)述べられるある事件に巻き込まれるのですが、観客はそのあたりの時間的前後関係を揺さぶられる形でこの映画を見ています。そしてそれ故にこの憎めない青年の未来に期待するとともに、未来に待ち受けている現実に打ちのめされます。しかしそれでも世之介を語る人たちによって現在の視点から、そして過去の視点から救われます。しかし同時に世之介はただの憎めない男でもないこともまた確認させられます。なぜなら過去とかこの時点での未来(=現在)は繋がっているようでつながっていないからです。これは自分の身に当てはめてもよくある、よく分かる話ですが、過去の友人は決して現在の友人ではありません。もはやどこで何をしているのかわからない人も少なくないでしょう。でも、あの日あの時、友人であった、友情があったことは事実ですし、それがいい思い出として、あるいは苦い思い出として我々には残っているものです。その甘さと苦さを形にするとこのような映画になるのでしょう。

一方のマンチェスター・バイ・ザ・シーはこれもたままた見た映画なのですが、今度は反対に憎める男で未来ではなく過去のある男の話です。しかしこの二つの映画はなんとなく似ています。それは撮り方、映像的なこともあるでしょうが、時間的な前後関係を揺さぶられるというその手法的にも似ている映画です。しかし横道世之介が基本的に過去の視点からその時点での未来を描いていたのに対して、こちらは基本的に現在の視点から過去の出来事を合間合間に描いています。基本的に未来は明るもので過去は苦いものでしょう。過去のエピソードがインサートされるたびに見ているものは辛い気持ちになります。しかしそれは現在の視点から過去を描いているからです。事実は事実として動かせない、変えられない。過去を変えることはできない。だからこそ未来を変えていく必要がある。それがこの映画のメッセージだと受け取りました。もちろん横道世之介がそうであったように未来にも不幸な出来事は待っているでしょう。ですがその時点から本人ではなく第三者が過去を振り返ることでそのかこの時点のエピソードが明るく語られるのであれば、それは「幸」ということになります。もちろん当人の意思や行動ではどうにも変えられない事実というのはあります。それは当の当人が受け止めなければなりません。しかしその先に希望の光はある。自分で選択したことについては希望の光というものは自分で灯すことができる。なぜならそれは「未来」なのだから。

過去を振り返った男が未来に希望を託す映画、未来に辛い現実が待ち構えているが過去を過去の時点での未来と捉え希望を描く映画、この2作品はその意味で共通しています。結果で語るのではなく、現在の選択において語るべきだという意味においてです。映画というものは一般にある時点の出来事を今の視点でとらて語り直すという意味で「結果」の芸術であると考えられていますが、しかしその実は過去の時点の出来事も今の時点の出来事も未来の時点での出来事も今の時点で捉えて提示することができるという意味で「選択」と「希望」の芸術でもあるのです。それを考えさせられる2作品でした。

 - 2. 趣味・副業メモ